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/ MacUser Mac Bin 36 / MACUSER-MACBIN36-1996-11.ISO.7z / MACUSER-MACBIN36-1996-11.ISO / READER'S GALLERY / 神奈川県 羽太庄作 / デスクトップの向こう / 3 < prev    next >
Text File  |  1996-07-26  |  23KB  |  356 lines

  1. 彼は突然過去の作品をスキャンし始めた。
  2.   ふらりと部屋に入ってくると彼は原稿を抱えて私の前に坐り、しばらくは例のごとく〜
  3.     原稿を広げて眺めていたが、急に、何の前触れもなく私を起動すると〜
  4.     それらをスキャンし始めたのだ。
  5.   彼は次々に原稿を取り込んでいった。次々といっても彼の友人の熟練工のような〜
  6.     達人技を具していない彼のことなので誤操作の連続で、その足取りはふらふらとして〜
  7.     頼りなげではあったが、彼は次第にその作業に没頭していった。
  8.   何も考えずにただ機械的にスキャンしていた。
  9.   私の周辺機器の一部に彼がなってしまったかのごとく、その意識はあまりにも希薄だった。
  10.   “取り憑かれたという表現がまさにぴったりだった”と彼自身回顧している。
  11.     そして連日深夜まで作業し続けたことで彼は眼精疲労に悩まされ、それでも休まず作業を続け、〜
  12.       遂には慢性的な睡眠不足に陥り、仕事疲れと相俟って精神的にも肉体的にも〜
  13.       かなり疲弊してしまったが、それにも関わらず彼は作業をやめなかった。
  14.     妻にもそれを嗜められており、このままでは仕事に支障を来し始めるのも時間の問題で、〜
  15.       彼のこの些か常軌を逸した行動に私も正直戸惑っており、有効な対処策を考えあぐねていた。
  16.     彼の“至福のとき”もこれといった効果は見られなかった。
  17.     そうこうしているうちに疲労は彼の体内にどんどん蓄積していき、そして遂には〜
  18.       極限に達してしまい、いよいよ仕事にも影響し始めたらしく、〜
  19.       憂慮している場合ではなくなった。
  20.     私は強行手段に出た。些か幼稚ではあったが、他にいい方法を思いつかなかった。
  21.       後ろに誰かいるぞ。
  22.         彼は即座に振り返るが、誰もいない。一瞬怪訝な顔を見せるもののすぐまた作業に戻る。
  23.       あれ、後ろに立ってるのは誰だ。
  24.         また彼は振り返るが勿論誰もいない。不思議そうに彼は作業を続ける。
  25.       それを何度か繰り返しているうちに彼に恐怖が芽生え、それは少しずつ彼の中に〜
  26.         蓄積していった。
  27.       誰かいる。誰かいる。誰かいる。
  28.         彼は一旦作業を中断して室内をじっくり観察し始めた。彼の疲れ切ってはいるが〜
  29.           研ぎ澄まされた神経が室内を隈なく点検した。
  30.       三分ほど室内を眺め廻したあと、彼はシステムを終了させるために私に向き直り、〜
  31.       頻りに背後を気にしながらシステムを終了させると、そそくさと部屋を出ていった。
  32.       出ていったのはいいが肝心のバックアップを彼は忘れていた。ちょっと度が過ぎた。反省。
  33.       以上
  34.     しかしその甲斐あってか作業をペースダウンさせることには成功したので、〜
  35.       じきに睡眠不足も解消していった。
  36.     以上
  37.   そして七ヵ月後に彼の選りすぐりの三十二作品のデジタライズが完了した。
  38.     前回のデータ消失がかなり応えたのだろう、今度はバックアップも万全だった。
  39.   しかし彼には少しの晴れがましさも認められなかった。これは彼にとって快挙と言ってよかったが、〜
  40.     しかし彼の心は煙草の煙の満ち充ちたこの部屋のように曇っており、〜
  41.     そこには一点の光も射してはいなかった。
  42.     彼の中にはまだ悪性のバグが存在しているようだった。
  43.   中途半端に終わっている半壊した原稿への彼の配慮がバグの正体らしく、彼はそれをどうするかで〜
  44.     ひどく悩んでいるようだった。
  45.     もう一度同じ作業を繰り返すことに腹立たしさを感じていたらしかった。
  46.     というより原稿そのものに恐れをなしているようだった。
  47.   “俺もあるよ。作業中にフリーズなんかすると心臓止まるからな。データはなくしてみて〜
  48.      初めてその重要性が身に沁みて分かるんだよな”と彼の友人は言って〜
  49.      ずずずとコーヒーを啜った。
  50.   “見るのも腹立たしいよ”と彼は言ってずずずずとコーヒーを啜った。
  51.     彼の友人のコーヒーには角砂糖が一個入っており、彼のコーヒーには二個入っていた。
  52.     部屋には二人の吐き出した煙草の煙が濛々と立ち籠めており、空気は一段と濁っていた。
  53.     二つのコーヒーカップからは、煙草の煙とはまた違う、湿気は多いが清浄な煙が立ち上っていた。
  54.   二秒の長い沈黙のあと彼は急に話頭を転じて、友人の黒々とした頭部をしげしげと眺めながら言った。
  55.     “それにしてもいいな、お前は、多くて。禿げそうにもないしな”
  56.     “そうか、多いのも困るよ、うっとうしくて。特に夏なんかたまんないよ”
  57.     見たところ彼と彼の友人は一廻りほども離れているようだった。彼の友人は血色もよく、〜
  58.       力を持て余しているというほど若々しく見え、不健康なこの部屋には〜
  59.       あまり似つかわしくなかった。一方彼の方は年齢以上に老け込み窶れていて、〜
  60.       その挙措動作は老人のそれに近かった。
  61.     “同い年で何でこうも違うかね”自分の薄い額をひと撫でして彼は言った。
  62.     彼のその言葉には嘆きと哀しみと怒りと憤りと諦めと開き直りとが、〜
  63.       彼らの手にしたカップの中のコーヒーのように微妙にブレンドされており、〜
  64.       そしてそれは立ち籠める煙のようにゆっくりと、しかし確実に室内に拡散していった。
  65.   以上
  66. 以上
  67.  
  68. 今度は気違いのようにけたたましく笑う声が部屋中に飛び交った。
  69.   それは私の中を忙しく流れる回路の電流をも著しく乱すような破壊的音声で、〜
  70.     一瞬だが私を錯乱状態に陥らせ、画面が少し乱れた。
  71.   彼の息子だ。
  72.     どうやら自己の新記録を達成したようだった。
  73.   彼の息子の口から漏れるとても正気とは思えない凄まじい笑い声は、〜
  74.     八月二十九日、火曜日の光景を私に想起させる。
  75.     私に限らず世の電気製品の最も苦手とする天敵と言ってもいい現象は落雷であり、〜
  76.       その標的となり石火の襲撃を受けたものはスクラップとなるしかない。
  77.     彼の息子の傍若無人などはそれに比べれば可愛いもので、総てを震わせるような〜
  78.       重低音のあの音は何より忌避すべき存在だ。
  79.       彼の息子が私を起動する前から雨は雨戸を叩いており、その前兆は窺えた。
  80.         それはいつ電源コードを伝ってくるか分からなかったが、この息子は画面を見ながら〜
  81.           呑気にいつまでも笑い興じており、その小さな頭脳に宿る意識には、〜
  82.           ゲームのことしかないらしく、雷など全く認識されてはいなかった。
  83.         ゴゴゴゴ、ドドドド、という地響きにも似た唸りは絶えず私を脅かし揺さぶり続けた。
  84.       以上
  85.     私は気が気ではなかったが、幸いにして雷は私のところへはやって来なかった。
  86.     以上
  87.   以上
  88. 以上
  89.  
  90. 彼が漫画制作を中断してからすでに一年は過ぎているが、その間の消息は日記にも〜
  91.   あまり書かれていないし、その日記自体も途切れ途切れなので、詳細は詳らかではない。
  92.   十一月十八日 土曜日
  93.     家のすぐ前、ほんの四、五十メートルくらいの所、痴漢がよく出るというあの公園脇の狭い通りだ。
  94.     私も一度痴漢に間違えられた。私は何もしていないのに、前を歩いていた女性が〜
  95.       あの辺りに差し掛かった途端、急に走り出したのだ。驚いて私も振り返ったが〜
  96.       誰もいなかったので、その女性が私から逃げたのだと分かった。思うに痴漢に〜
  97.       間違えられることほど腹立たしいことはない。逃げられたのではこっちに弁明の〜
  98.       しようもなく、痴漢だと思われたまま担ってしまう。かといって追い縋ってまで〜
  99.       説明しようとは思わないし、追い掛ければ余計怪しまれるに決まっている。
  100.     とにかくその公園脇を歩いてたときのことだ。
  101.     突然つむじ風が巻き起こったかと思うと、何かが私の顔にぺたりと張りついた。
  102.     風に流されて飛んできた枯れ葉か何からしかったが、それにしてはやけに大きかった。
  103.     顔を振っても離れないので手で掴んで捨てようとしたところ、〜
  104.       感触がどこか枯れ葉とは違うことに気づいた。枯れ葉よりも柔らかみのある〜
  105.       手に馴染む感触で、しかもその感触には覚えがあった。よく触り慣れている感触だった。
  106.     よく見るとそれはお札だった。
  107.     しかも一万円札。まさしく一万円札。くしゃくしゃの皺だらけではあったが、〜
  108.       それで価値が減じるわけでは決してない、大蔵省印刷局で印刷された紛れもない日本銀行券。
  109.     福沢諭吉の肖像が「儲けたな」と、にやりと私に微笑み掛けていた。
  110.     これは何か吉事の前兆でもあろうか。追い風が吹いてきた証拠だろうか。痴漢に間違えられた〜
  111.       代償かもしれないな。
  112.     とにかくこれは幸先がいい。
  113.   十一月二十日 月曜日
  114.     やはりこの好機は逃すべきではナイルこれを機に再開できるかもしれない。そしてそのまま〜
  115.       波に乗って上手くいくかもしれない。
  116.     とにかく見るだけでも見ておいた方がいい。
  117.   以上
  118.   そして彼は日記を閉じると半壊した原稿を開こうとフォルダを掻き分けて奥へと進んでいった。
  119.     そこにはいくつものファイルが整然と並んでいた。
  120.   しばらく彼はそれらをじっと眺めていたが、ゴクリと唾を飲み込む音をさせると〜
  121.     遂に意を決してそのファイルのひとつにカーソルを持っていった。
  122.     カーソルはふらふらと彷徨うような頼りない動きを見せてファイルに近づき、〜
  123.       何度もその周りを廻ったあとにようやくファイルと重なる。
  124.     あとはクリックするだけだ。指を軽く二回痙攣させれば自動的にアプリケーションが起動され、〜
  125.       ファイルは開く。一分近い間があり、その間彼の呼吸も滞っていたが、〜
  126.       大きく息を吸い込むと、彼は人差し指を動かしてクリックした。それでファイルは〜
  127.       開くはずだった。しかしファイルは開かれなかった。彼がクリックしたのはファイルではなく〜
  128.       クローズボックスだった。ウインドウは次々と閉じられ、最後に彼の眼も堅く閉じられた。
  129.       十一月二十一日 火曜日
  130.         やはりまだ無理なようだ。どうも見る気がしない。
  131.         一万円くらいでは何のご利益にも与れない。
  132.       一月二十八日 日曜日
  133.         世の中にはつまらない漫画ばかりが氾濫し、衰退の一途を辿っている。墜ちる一方だ。
  134.         面白い漫画はどこにもない。悪しきアンケート主義が漫画を駄目にしたのだ。
  135.         漫画も地に墜ちた。
  136.       以上
  137.     以上
  138.     “そうかな、結構面白いのもあるぜ”
  139.     “駄目だよ、マンネリだ。どれもこれも。客に媚びてばかりいるからだ”
  140.     “でも、漫画くらいだぜ。日本が世界に誇れるのは。凄いらしいじゃないか、海賊版とかが”
  141.     “確かに日本の漫画は世界に誇れる高度に優れた文化だとは思うけど、〜
  142.       それにしては子供騙しが多過ぎる。年々底が浅くなってるし。それに今じゃゲームの方が〜
  143.       人気だし、人材もそっちに流れてる。余命幾許もないって感じだな”
  144.     “厳しいな、随分”
  145.     “厳しかないよ。映画だって小説だって失速寸前で、漫画はその映画と小説の尻を〜
  146.       必死になって追いかけていたんだから、当然の結果としてそれと同じ袋小路に〜
  147.       入り込んだんだ。まあ、無理もないけどね”
  148.     “その失速気味の漫画の機首を上げるために、自ら漫画を描いて世に問うってわけだ”
  149.     “まさか、俺にそんな才能ないよ。とどめを刺すことはできても、〜
  150.       生き返らせることはできないよ。俺はただ描きたいから描いてただけだ。〜
  151.       でも最近やる気が全然なくてね。もう、やめようかと思ってる”
  152.     “何だよ、最初はえらく意気込んでたのに。どうすんだ、ホームページは”
  153.     “気が向いたらな”そう言うと彼は一気に疲れ切った表情になり、ちらっと私の方を見た。
  154.     それからぽつりと“ジャズでも聴くか”と言って立ち上がった。
  155.     二月九日 金曜日
  156.       今日は〝パソコン日記〟記念日だ。毎日とはいかなかったが、〜
  157.         それでも何とか一年は続いた。やればできるものだな。
  158.       妻にそのことを告げたが、「あらそう、もうそんなになるの。早いね、一年って」と〜
  159.       素っ気なく言っただけだった。おめでとうの一言くらいあっても良さそうなものだが、〜
  160.       まあ、許そう。今日はめでたい日なのだから流とにかくこれを祝おうではないか。
  161.     五月二十二日 金曜日
  162.       今日、思わず知らずファイルを開いてしまった。まるでそんなつもりはなかったのだが、〜
  163.         人差し指がうっかり痙攣してしまったのだ。
  164.       それは見るも無残に破壊されていた。まるで爆撃を受けた町のように穴ぼこだらけだった。
  165.       とても修復する気にはなれないが、かといってあっさりとゴミ箱行きにもできない。
  166.     五月二十六日 火曜日
  167.       設問1
  168.         あれは一体何だ。穴ぼこだらけで丸裸の、あの無残に汚らしいものはる
  169.       解答
  170.         柔らかなトイレットペーパーにやさしく包まれて水洗便器にぷかりと浮いている、〜
  171.           中には重くて沈んでしまうものもある、飽きもせず毎日製造しては拝んでいる〜
  172.           私の排泄物が眼に浮かんでくる。
  173.         日によって微妙に違うがねそれらはは赤褐色を呈しており、まるで生まれたての〜
  174.           赤ん坊のように可愛らしい。鼻を突く臭いも気にはならない。
  175.         あれは私の排泄物のごときものだ。臭くて汚くて恥ずかしくてとても人には〜
  176.           見せられないが、何故か抱きしめたいほどいとおしい己の糞便、ウンコ、くそ。
  177.         その意味では人は皆スカトロジストと言えるのかもしれない。
  178.         そしてそれを自慢気に、恥ずかしげもなく人に見せて喜ぶのは真性のマゾヒストだ。
  179.         とすればインターネットの普及はマゾヒストの増加を促し、必然的にインターネットは〜
  180.           マゾヒストの溜まり場と化し、世界わマゾヒストだらけにしてしまうのだろうか。
  181.         それがインチーネットの隠された正体なのだろう軽
  182.         そうだとすればその計画は着々と進行しているようだる
  183.         マゾヒストの時代、マゾヒスト天国。
  184.       設問2
  185.         マゾヒスト製造システムとしてのインターネットが世界を席巻すると、〜
  186.           それではサディストはどこへ行ってしまうのだろう。
  187.         以下より選べ。
  188.           1 地下に潜伏してインターネット破壊の過激ハッカーになる。
  189.           2 マゾヒストに成り済ましてホームページを開設して〜
  190.             密かにインターネット殲滅の機会を狙う。
  191.           3 インターネットをサディスト製造システムに変えるための調査研究に勤しむ。
  192.           4 サディストをやめて、マゾヒストに転向する。
  193.         以上
  194.       解答
  195.         5、あるいは6
  196.       以上
  197.     五月二十七日 水曜日
  198.       ただ見るだけなら覗見症的性格さえあれば充分だが、自ら世界に発進するには〜
  199.         マゾヒストにならなければならない。
  200.       インターネットはその加入者にマゾヒストになることを要請する。
  201.       私はスカトロジストではあるかもしれないが、マゾヒストではないと思うので〜
  202.         インターネットには向いていないということなのだろうか。
  203.       情報の発信者にはなれないのだろうか。世界の趨勢からは取り残されてしまうのだろうか。
  204.     六月十一日 火曜日
  205.       あの見るも無残な原稿がものの見事に再生し、美しく変成を遂げて完成し、〜
  206.         血と汗と涙とストレスの結晶とも言うべきホームページも華々しく開設した。
  207.       努力は報われたのだ。
  208.       すると世界中の人がアクセスしてあっという間にパンク寸前になった。
  209.       これを嬉しい悲鳴と言わずして何と言おう。
  210.       私は世界に認められ、一躍有名人になってしまった。
  211.         以下のようなメールが無数に届いた。
  212.           あなたの作品を見て感動しました。これからも応援します。
  213.         私はそれに涙し、できる限り返事を出した。
  214.         以下のようなメールも無数に届いた。
  215.           時間の無駄だった。下らないものを載せるな。マゾ野郎。死ね。
  216.         私はそれに激昂した。
  217.         なかにはこんなものもあった。
  218.           あなたを好きになってしまいました。できれば逢って話がしたい。
  219.           愛しています。連絡待っています。
  220.         私はそれに戸惑い、返事を出したものかどうか迷いに迷った。
  221.         以上
  222.       しかしメールは大体において好意的なものが多かった。
  223.       お陰で私のところには数え切れないほどの仕事の依頼が殺到し、〜
  224.         銀行には毎月多額の金が舞い込んでくるようになった。
  225.       当然だがそれは夢だった。
  226.       眼が覚めると私は地下鉄の通路脇の段ボールで囲っただけの、〜
  227.         容赦なく隙間風に嬲られる粗末な家の中で、新聞紙に包まって横になってにやけていた。
  228.       会社は倒産し、それが元で妻とも離婚し、一文無しになってホームレスになっていたのだった。
  229.       私はしかし誰よりも自由だった。段ボールの家も気に入っていたし、〜
  230.         隙間風とも馴れ合いになっていて、ホームレスを思う存分満喫していたいた。
  231.       私を視野から外そうとするが全身で意識してしまっているのが見え見えの、〜
  232.         目の前を通過する通勤途中のサラリーマンの忙しないがぎこちない動きも、〜
  233.         何故か心地よく、私にささやかな笑いを提供してくれるのだった。
  234.       彼らは私を人間扱いしていないが、私も彼らを人間扱いしていない。
  235.       このホームレスの夢は、私にもマゾヒスト的性格が潜んでおり、その発現の可能性も〜
  236.         充分にあるということを端的に示しているのではないか。私の分析が正しければだが。
  237.       以上
  238.     六月十五日 土曜日
  239.       最近どこにいってもインターネットという言葉を耳にする。どこにでも転がっている。
  240.       その言葉は殺しても死なないゴキブリのように物凄い繁殖力でもって増殖し、〜
  241.         途轍もない飛翔力を発揮して我が物顔に世界中を飛び廻り、〜
  242.         まるで周到なウイルスのように隙あらば人の心の隙間にそっと入り込み、〜
  243.         あるいはきらびやかな粉飾を全身に施して堂々と入り込み、〜
  244.         何食わぬ顔で居座って宿主の栄養を掠め取ってぬくぬくと成長し、〜
  245.         そのうちいつの間にか宿主と同化し、そして新たな種を蒔く。
  246.       メディアもその言葉を重宝がって挙って世間を煽っている感がある。
  247.       いよいよ世間に追い立てられているような感が強くなってきた。
  248.       まあ、それだけの価値があるということなんだろうが、鬼気迫る思いがしなくもない。
  249.       私もその追い風に乗れればいいのだが、上手くいかない。ネットの波と同様、〜
  250.         世間の波に乗るのも苦手だ。下手に乗ろうとすると却って溺れてしまうのだ。〜
  251.         私は泳げないのだ。
  252.     六月二十一日 金曜日
  253.       リサイクルには時間と人手が掛かる。一朝一夕には行かない。
  254.       「結局地道にやるしかない」という妻の言葉が思い出される。
  255.     以上
  256.   以上
  257. 以上
  258.  
  259. 音もなくドアが開き、それを相補するように大きな音を立ててコーヒーを啜りながら彼が戻ってきた。
  260.   その間八分二十三秒。出ていくときに啣えていた煙草はすでにない。
  261.   彼はコーヒーを無造作にCDラックの上に置くと、ゲームに熱中して彼の戻ってきたことに〜
  262.     一向気づかない息子の真後ろに佇んでしばらく画面を覗き込んでいたが、〜
  263.     短いため息をひとつ吐くと、その細長い両腕を伸ばして息子の両脇を掴んで軽々と持ち上げた。
  264.     持ち上げられた息子は意味不明の言葉を発し手足をばたばたさせて抵抗する。
  265.     その弾みで椅子がひっくり返り、それが強か彼の右膝を打ち据えた。
  266.     小さいが敏捷な動きを見せる息子の足は尚も猛威を奮い、彼の腹にも二回めり込み、〜
  267.       机の角に当たって私も揺れた。
  268.   彼は腹と右膝の痛みを堪えつつ父親の権力で有無を言わせず息子を退出させると、何か決断した〜
  269.     面持ちでコーヒーを一口啜ってからキーボードの脇に置き、私の真向かいにあるCDラックから〜
  270.     気に入りのCD、“オーネット・コールマン”の(FREE JAZZ)を取りだしてミニコンポの〜
  271.     CDプレーヤーにセットし、倒れた椅子を起こし、それからリモコンを持って私の前に〜
  272.     坐ってから再生ボタンを押した。
  273.     接触が悪いのか彼はボタンを二度押した。
  274.   かなりの衝撃があったらしく、彼は顔を顰めながら腹と膝をさすっていた。
  275.   二つのスピーカーから音が流れだしたとき、その振動と相殺して私の揺れはようやく止まった。
  276.   以上
  277. 以上
  278.  
  279. 私にもオーディオCDを再生するための機能拡張書類とアプリケーションがあり、〜
  280.   それを聴くことは可能なのだが、彼は殆どそれを使わない。
  281.   それは私のサウンドシステムがミニコンポに比べて貧弱だからだろう。
  282.     内臓スピーカー以外に私には音を発する装置を取り付けられてはいないからだ。
  283.   彼は息子のやっていたアプリケーションを終了させるとペイントソフトを起動し、〜
  284.     それが起動するまでの短い待ち時間の間に二本目の煙草を取りだし、素早く火をつけた。
  285.     今度は一度で勢いよく炎が上がった。
  286.   彼の吐いた煙が私を覆うと同時にペイントソフトは起動を完了し、私は彼の入力を待つ。
  287.   彼はゆっくりと眼を閉じて三秒間何か黙考してからカーソルをファイルメニューへと運び、〜
  288.     <開く…   □O>を選ぶ。
  289.     彼が開いたのは五割方データの消失している一年間野晒しにされていた、〜
  290.       例の“見るも無残”な漫画原稿だ。
  291.   ファイルが画面に表示された瞬間彼は眉を顰めたが、それはしかし一瞬ことで、〜
  292.     被害状況を的確に把握するためか、すぐに眼を見開いてまじまじとそれを眺め始めた。
  293.   以上
  294. 以上
  295.  
  296. 彼の私を見る眼差しがいくらか変わっていた。
  297.   蛍光灯の光とモニタの発する光を受けた彼の眼球の反射光の波長が、ごく僅かだが短くなっている。
  298.   少なくとも私はそう判断した。そして私の判断は極めて正確なものだと自負している。
  299.   夢の啓示が後ろ向きだった彼を辛うじて前に向け、湾曲した彼の背中を後押ししたらしく、〜
  300.     そのこと自体は私も喜ばしく思うし、できる限りの助力は惜しまないつもりではあるのだが、〜
  301.     しかし私はこれは長続きしないのではないかと危ぶんでいる。
  302.   いつものように中途半端に終わってしまうのではないかと危惧している。
  303.   彼が失敗してしまうのは事を急ぎ過ぎるからで、〜
  304.     完成を急いで焦ってとんでもないことをやらかしてしまうのが、彼のいつものパターンだった。
  305.     そして彼は何度でも同じ失敗を繰り返して歯噛みする。学習能力が些か欠如している。
  306.   スキャニングに成功した自信も手伝ってか彼は張り切っているようだが、今回もまた、〜
  307.     途中で挫折する危険性を多分に孕んでいる。その道は細く長く、そして険しい。
  308.     早くも彼の視線は定まっていず、何かを探すかのように絶えず動き廻り、〜
  309.       時々怯えたようにひくひくと痙攣したりしている。
  310.       これらの彼自身には全く意識されない現象は、総て失敗を招く前兆の意味を持っている。
  311.     そのうち“胃の辺りがキリキリ痛み”だし、“腸が不規則な蠕動をし”始め、〜
  312.       更には“眼窩の奥を針でぷつぷつ刺され”始め、〜
  313.       そして“重い鈍痛が両こめかみを襲う”などという自覚症状が現れるだろう。
  314.     彼の集中力はそう長くは続かない。せいぜい七、八分だ。
  315.     人には向き不向きというものがあり、焦って何とかなるというものでもなく、〜
  316.       取り替えしのつかないことにならなければいいが。
  317.   とりあえず忠告だけはしておくことにするが、効果のほどはあまり期待できない。
  318.     彼の眼球にある毛細血管はすでにはち切れんばかりに膨れ上って充血しており、〜
  319.       私など眼中にない状態に突入してしまっている。
  320.   彼は私の言葉に一切耳を貸さず、ひたすら作業に没入している。いつになく真剣だ。
  321.   以上
  322. 以上
  323.  
  324. いつの間にか彼の妻が彼の後ろに立っている。
  325.   彼もそのことに気づいているようだが、作業の手は休めない。
  326.     画面を覗き込みながら彼の妻が言う。
  327.       “どうせまた途中で投げ出しちゃうんだから、あの人に手伝ってもらえばいいのに。〜
  328.          ほら、いろいろ教えてもらった人、なんて言ったっけ”
  329.     微かに画面に写る妻の姿を見ながらぼそぼそと彼が言う。
  330.       “今度はいけそうなんだ。見てろって”
  331.       “どうだか、いっつもそんなこと言ってたような気がするけどな”
  332.     そう言いながら彼の妻は両頬を微かに持ち上げて、画面と彼の背中に交互に視線を送っていた。
  333.       “いけるさ、多分”殆ど自分に言い聞かせるように彼は呟いた。
  334.       “無理しないでね”彼の妻は小声でそう呟いた。
  335.     以上
  336.   私も彼の妻の意見に賛成だ。
  337.     瞬きの回数が極端に減り、赤く充血した眼を時々手の甲でこすりながら彼は作業に専念しており、〜
  338.       妻の声が聞こえていたかどうかは分からない。
  339.     彼の妻の声は確実に彼の鼓膜を震わせはしただろうが、〜
  340.       彼の脳がそれを選別できたかどうかは私にも分からない。
  341.     CDの音の波に飲み込まれてしまった可能性もある。私のファンの音も聞こえないくらいだから。
  342.   彼の妻は静かに部屋を出ていったが、それにも彼は気づかなかった。
  343.   以上
  344. 以上
  345.  
  346. この原稿が完成しても彼にはまだしなければならない作業がいくつか残っている。
  347.   一枚一枚のファイルを繋げてブック形式にするのだが、彼にとってはそれが最も大きな山だ。
  348.     “やってやろうか”彼の友人が親切にも言ってくれ、彼はその好意を受けるべきだった。
  349.     “ホームページの方はさ、やってもらうとしても、これだけは自分でやりたいんだ”
  350.     きっぱりと彼は言い放った。そのときの彼は、友人に引けを取らないとまでは言えないが、〜
  351.       幾分若やいで見えた。少なくとも年相応には見えた。
  352.   以上
  353.   とは言うものの彼のホームページの完成がいつになるのか、私には見当もつかない。
  354. 以上
  355.  
  356.